什錦糯米飯(中華風五目おこわ)紀元前770年に洛邑で周を再建した東周時代の出来事に由来があるとされています。周は自然災害や内乱、異民族による襲来などが重なったことで力が弱まり周王の権威も衰えていき、紀元前5世紀末には下克上が進んで韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦の「戦国の七雄」が力をつけていきました。
そして紀元前3世紀には戦国の七雄のひとつ、楚国に政治家として懐王と頃襄王に仕え愛国詩人として知られている屈原という人物が外交を担当し、急速に力をつけてきた西方の奏への対策を講じていました。しかし奏国を警戒していた屈原の忠告は聞き入られず、楚国内の新奏波によって宮廷から追放され、後に頃襄王によって政権復帰した時も再び追放されてしまいました。その後、紀元前277年に楚国は奏軍によって都郢を占領されたことで絶望し、5月5日(旧暦)に長江から洞庭湖に注ぐ汨羅江(べきらこう)という支流に身を投じて亡くなりました。
この死を悼んだ楚の人々は、糯米を楝樹(れんじゅ)の葉で包んで蒸し上げた粽をつくり、邪気を払うとされている五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ったものを投げ入れて供養しました。その後、暑い季節が始まる5月の命日に供物として粽を作る事が習慣となり、これが災いを除くための風習になったようです。
五色の糸で縛った粽は無病息災を祈願するための供物として日本にも伝わり、端午の節句に「ちまき」を食べることが広まりました。
- シチュー用ポーク(1㎝角切り)
- 100g
- もち米
- 300g
- 干し貝柱
- 10g
- 干しエビ
- 10g
- 干しシイタケ
- 2枚
- タケノコ(水煮)(1㎝角切り)
- 50g
- ネギ(5mmスライス)
- 30g
- ショウガ(みじん切り)
- 10g
- Ⓐ 干し貝柱(戻し汁)
- 100ml
- Ⓐ 干しエビ(戻し汁)
- 100ml
- Ⓐ 干しシイタケ(戻し汁)
- 100ml
- Ⓐ 日本酒
- 30㏄
- Ⓐ 中国醤油
- 15㏄
- Ⓐ オイスターソース
- 15㏄
- Ⓐ 上白糖
- 2g
- Ⓐ 食塩
- 少量
- Ⓐ コショウ
- 少量
- ごま油
- 12g
- 茹で落花生
- 40g
- 笹の葉
- 4~5枚
- もち米を400㏄以上の水に浸して1時間程度給水させ、水を切っておく。
- 笹の葉は水に浸してやわらかくしておく。
- 干し貝柱、干しエビ、干しシイタケはそれぞれ水に浸して戻し、粗みじん切りにする。(戻し汁は取っておく。)
- Ⓐの材料を合わせて合わせ調味料を作る。
- フライパンにごま油をひいてから強火にかけ、干し貝柱、干しエビ、干しシイタケ、タケノコ、ピーナッツ、ネギ、ショウガを入れて炒める。
- 全体に火が通ったら中火にし、もち米と合わせ調味料を入れて混ぜ合わせる。
- 全体的になじんできたらシチュー用ポークを混ぜ合わせる。
- 水を入れた蒸し器にさらしを敷いて⑦を乗せ、強火で40~50分蒸し上げる。(できれば⑦を笹の葉に入れて三角形に包み、蒸し上げる。)
- 蒸し上がったら笹の葉に入れて三角形に巻く。
中国料理というと小麦粉を使った麺類を思い浮かべることが多いのですが、穀類を粉に加工して食べられるようになったのは、紀元前33年頃(漢代)に小麦粉で作ったお餅の記録が最も古いとされています。
それ以前は古代から粟、黍、稲、麦(大麦)、豆などの穀物が作られ、粒のまま炊いて食べられていました。以前は黄河の中下流域地域で7000年以上前に文字の誕生とともに農耕がはじまったとされていましたが、近年の研究によって8000年以上前に長江の中流域で稲作を中心とした農耕集落が誕生していたことがわかっています。
地域や時代によって主食になった穀類は変化したようですが、小麦はあくまでも裏作用でしかありませんでした。小麦は粉に挽くことで応用範囲が広がり、一気に主流になっていったようです。
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